長嶋終身名誉監督の訃報
長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督の訃報に接しました。まずはご冥福をお祈りいたします。
昼食を食べた遠方のラーメン屋のTVで、お昼のワイドショーがこのニュースを取り上げていたのですが、おそらくこのニュースを知らなかったであろう70歳くらいのお客さんが入ってきてこのニュースを目にした際、まさに魂が抜けたように凍りついていた姿が印象に残っています。
ただ、1976年生まれの私の場合、1958-74年の現役時代は知るはずもなく、75年-80年の第一次監督時代もまったく記憶にありません。93-01年の第二次監督時代は直接的印象があるのですが、私自身に与えた本当の影響は、この間の81年-92年の浪人時代だったかもしれません。
私の記憶にある日本シリーズは、第一次藤田監督時代の83年の西武×巨人で、この日本シリーズは全7試合の第3戦以降のすべてで「先手必敗」、つまり先取点をとった方が負けるという壮絶な展開となった伝説の年です。この時期に巨人に忠誠を誓った世代の信仰対象は、やはり「4番サード原」、原辰徳選手となります。
しかし、この「4番サード原」は、叩かれる叩かれる。誰から叩かれるかというと、他チームのファンではなく、巨人ファンから叩かれるのです。
「原が打てなかったせいで負けた!」
「あの打席は長嶋なら絶対に打っていた!」
とはいっても、80年オフにドラフト1位で巨人に入団した原選手の成績は、
81年 125試合470打数126安打.268 22本塁打67打点
82年 130試合494打数136安打.275 33本塁打92打点
83年 130試合500打数151安打.302 32本塁打103打点(打点王)
です。・・・何の不満があるんですか???
「ON砲」と並び称される王さんがいたために責任が分散された長嶋さんと比較して、他が打って勝った場合には「原が打っていれば…」とむしろ責任を一人で背負わされた原選手の扱いがあまりに理不尽で、気がつくと「読売ジャイアンツ党原派」として、上の世代(といっても、当時は下の世代なんてほとんどいなかったため、巨人ファン内でも圧倒的少数派)とは別路線をとり続けた・・・といえば、同世代には大体想像がつくのではないかと思います。戦後の日本人で、長嶋さんのように、幼いころの私が理不尽なものとして受け入れられないほどに巨大な影響をほど日本社会に対して与えた方は、ジャンルを問わず、果たして何人いたのだろう。。。
そんな長嶋さんも、亡くなる時には亡くなる(まさか3日に、89「=野球」歳で亡くなるとは思いませんでしたが)。私の神も、そして私自身も、いつかは旅立つ日が来る。そんなことを考えた訃報でした。