崇高なる言論の自由

最近、「おお・・・」と感心することが多い大河「べらぼう」。今週は、お上から厳しく取り締まられている政治風刺とは全く異なる別境地の傑作をよその本屋から出した北尾政演(山東京伝)に当たり散らす蔦重が刺さりました。

最初は「自分の本屋ではなくよその本屋で傑作を出したこと」を怒ったのかと思いきや、先週に政治を風刺しまくった挙句、松平定信の弾圧を受けて自ら果てることとなった恋川春町先生の「遺志」を盾に、松平定信の意に沿う形での傑作を世に出した京伝を責め立てるのでした。出版社である蔦重が、「言論の自由を守る」という大義の下に、クリエイターである京伝の言論の自由を攻撃したわけです。・・・これは確かに絶縁ものですが、より深刻なことに、たぶん蔦重本人は自分の問題点をまったく意識していないであろうことです。

この表現の秀逸なところは、視聴者も、その背景に関わらず、自分の任意の要素を京伝にあてる形で解釈することが可能で、現にそうしているであろうことです。その解釈の前提である対立側は、自分も蔦重側にあてられているかもしれない・・・ということまでいちいち考える・・・というめんどくさい人はすべてではないでしょうが、指摘されたら納得してほしいところ。優れた風刺は、読み手が主観をどちらの立場に置くかによる逆の読み替えを可能にすることにより、意見対立のあるところでの双方の立場からも共感を得ることを可能にするのです。

同じようなものに、「銀河英雄伝説」における「憂国騎士団」の描写があります。やはり、言論の自由は絶対に守られなければならないと再認識しました。やはり、私は!!私が想うがまま、私が望むまま!!!!邪悪であったぞ!!!!!!好き勝手なことを書くぞ!!!!!!